アダムの木
その不思議な木の話を聞いたのは、三度目に島を訪れた時だった。
その頃私は、日本で友人と起こした会社が軌道に乗り始めた為に、雑多な仕事が私達の
手を煩わせないようになって上機嫌だった。
ときどき報告を受け、それにイエス・ノーを答えるだけで大きな収入が得られていたの
で、電話さえ通じるならば何処に居てもよかった。ネオンを見渡すホテルや、地下の窮屈
なバーで電話を受けるのに飽きた私は、月に一度くらいのペースで、海外に行くようになっ
ていた。
都会も田舎も北も南も行ってみたが、寒い所はどうも苦手で、潮騒と海風が好きだとい
うことが分かった。
数々の旅先の中で最も気に入ったのは、とある南国の島だった。観光地化は進んでいたが、
島の東側はまだまだ外国人を珍しがる田舎町が多く残っている。喧騒の中で寝起きするこ
とに飽きていた私は、三度目に島を訪れた時に思いきって東側の安民宿を借り、しばらく
滞在することにした。普段はうるさい団体観光客を見掛けることもなく、けれどちょっと
足を伸ばせば、例えばブランドのシャツを買って身に着け、気取った食事をとることもで
きる。そのバランスが気に入っていた。
私のその頃の暮らしぶりは、まさに、極楽浄土を満喫しているようだった。いや、ここ
は日本ではないから、極楽浄土よりも、『楽園』と呼んだ方がしっくりくるかもしれない。
たいがいの日は、私は昼前まで自分の部屋で寝ていた。民宿にレストランはなかったが、
私は特別にオーナーに頼み、その時間帯なら電話をすれば簡単な食事を用意してもらえる
ことになっていた。部屋についていた小さな台所では、市場で手に入れたフルーツを洗っ
たり、酒に入れる氷を割ったりした記憶しかない。
食事の後は、部屋か庭か、あまり晴れ過ぎていない時ならば浜辺で、本を読んだり、ま
たうとうとしたり、見様見真似で絵や詩やマリンスポーツを始めてはすぐに投げ出したり
して過ごした。民宿の庭は特に私の気に入りで、南国特有の濃い緑の影で昼寝をすると、
瞼の裏にはいつも決まって、辺りに咲き乱れるブーゲンビリアの、鮮やかな赤やピンクが
浮かんでは消えた。
夜には、若い女性を誘って西側へ行き、めかし込んだ食事をすることもあったが、多く
の場合は、現地人を相手にした民宿近辺の店で、だらだらと遅くまで酒を飲んでいた。幸
い私は英語が出来るので、現地の人間ともよく飲みながら話をした。誰もが明るく、日々
の呑気さ加減は私とそう変わらないように見えたが、しかしその生活のレベルは当然なが
ら全く違っていたので、彼らに混じって談笑しながらも、私は贅をひけらかし、心地良い
優越を感じていた。
その男について、その店の隅で、一人で舐めるようにして酒を飲んでいる姿を何度か見
掛けたことがあった。なんとなく、その背中に背負った暗さが私の好奇心を引いていたの
だが、ある日、彼の方から話し掛けてきた。
「あんた、日本人だってな」
彼は私の隣りの席に滑り込んで、初めにそう言った。
久しぶりに聞いた日本語に驚いて、私は顔を上げた。よく焼けた上に垢でもたまってい
そうなくすんだ色の皮膚と、遠巻きに見ていた後姿からは分からなかったが、彼も、どう
やら日本人のようだった。
彼も私も店にキープしたボトルがあったので、それぞれ自分の酒を飲みながら、私達は
しばらく一緒に座っていた。彼はめっぽう無口だったので、私は仕方なしに自己紹介をし
たりして、ほとんど一人で喋っていた。
途中、私が
「もうこの島は長いんですか?」
と聞くと、彼は、隣の席にやって来たとき以来初めて、私の方を向き、唇の端を歪めた。
それは、あまりにも醜い笑いだったので、私は何だか気分が悪くなり、彼から視線をそら
せて天井を仰ぎ見た。体のわりに大きな羽を持った虫が、ねっとりと熱い空気の中を、重
そうに飛んでいた。
ふいに、隣りの席からカランと氷の擦れ合う音がして、男がグラスに酒を注いだのが分
かった。それから彼はグラスを持ったまま、テーブルにぐいと身を乗り出して、両肘を付
いた。
「タンサの丘に行ったことがあるか?」
「え?」
私が振り向いて聞き返すと、彼は周囲を気にして声を潜め、もう一度言った。
「タンサの丘さ。ここから北へ、車で二十分くらいだ」
私は視線を泳がせながら島の地図を思い返してみたが、そんな名前に心当たりはなかっ
た。
「いや、知らないな。そんな丘があったか?」
私がそう答えると、彼はまた不器用に唇を歪めて笑い、テーブルへさらに深く肘を付い
て言った。
「あるさ。ガイドブックに載るほど大きな丘じゃないが……そこに、面白いものがある」
そこで一呼吸置くと、男は、隣に座る私ではなく、正面のガラスに映った私の顔を見て
続けた。
「アダムの木だ」
ニヤついた男の顔を見る勇気がなかったので、私も正面の映像に向かって話しかけた。
「……どう面白い?」
「あまり大きくはないが、濃い赤い花が咲いていてよく目立つ。この時期、もうそろそろ
実が成る頃だ。サラックに似ているが、朱にはならない。行ってみると良い。島の人間も
近寄らない、静かだぞ」
「近寄らない?何かあるのか?」
「アダムの木の実を食べてはならない、そういう言い伝えがある。実はとても美味いとか、
腐った卵の味がするとか、話もあるから、食った奴はいるんだろうけどな」
「あんたは?」
「よく見に行く。綺麗な花だ。分からなかったらタクシーを頼めばいい。それくらいの金、
あんたにはあるんだろ。アダムとイブの、あのアダムの木だよ」
それから数日の間、その男を見掛けることはなかった。
ある、昼過ぎ遅くに目覚めた日、私はその丘へ行ってみることにした。
詳しい場所が分からないので、男の言う通りに、島の西側からタクシーを呼んだ。やっ
て来た運転手はまだ若く、私に、丘で何をする気なのかと何度も尋ねた。どうやら妙な言
い伝えがあるのは本当らしかったので、私は彼に何も答えなかった。丘に着いて車を降り
る時、運転手は全開にした車の窓から身を乗り出すようにして、こう言った。
「アダムの実だけは食べないほうがいい。追放されるぞ、嘘じゃない」
なるほど、楽園から追放されるからアダムか。島の掟だろうか?食べると村八分にでも
遭うのかもしれない。
私は、後姿で彼に了解の右手を上げると、そのまま奥を目指した。
アダムの木は、すぐに分かった。その丘は一面の緑に覆われてはいたが花には乏しかっ
たので、その木の血のように赤い花は、よく目を引いた。目の前まで近づいてみると、花
の盛りはすでに過ぎたらしく、縮れた花びらが下を向いていた。実も成っている。足元に
も、いくつか落ちて潰れた実があって、何だか汚らしい印象を受けた。
想像していたよりも木はずっと小さく、何の威圧感も感銘も感じさせなかったので、私
は拍子抜けしてしまい、その辺に座り込んでとりあえず一服した。
丘は、もう少し先へ行くと岩だらけになり、その向こうには海が見えていた。パラセイ
リングのパラシュートが、いくつも浮かんでいる。距離が遠いので、飛んでいるというよ
りは、空に張り付いているように見えた。
雲のない日だったので、いつまでもそこにいると干乾びてしまいそうだった。私は煙草
をもみ消すと、もう一度アダムの木に近寄り、実を一つもぎ取った。硬い皮を剥いてみる
と、熟れ過ぎた足元の物とは違ってまだ白い実が、私の掌から肘を伝って汁を垂らした。
ライチに似た、甘い匂いがする。
少し迷ったが、自分の予定を思い出して、その実を食べることにした。どっちみち、翌
日には日本へ帰るつもりだった。毎日寝て飲む暮らしにもそろそろ飽きたし、日本で客に
会わなければならない用事ができたのだ。禁を破ったことがどこかからバレて咎められて
も、困ることはなさそうだった。一日早く帰ることになるよりも、その甘い匂いへの好奇
心が勝った。
まず、掌を濡らした汁を舐めてみた。あまり味がしない。次に、実にかぶりついてみた。
やはり、水っぽいだけでたいした味はしなかった。一つ丸々口に入れ、まわりの果肉まで
削ぎ取ってから、草むらに種を投げた。ハンカチで口と手を拭い、そのままタクシーに戻っ
た。歩いているうちに、付いた甘い匂いもすぐにとんだ。
運転手は車の中でラジオを聞いていが、私が助手席の扉を開けると、後ろに身を引くよ
うにして私を見つめ、
「食べたのか?」
と聞いた。
「まさか。それより、宿に戻ってくれ」
そう答えると、彼は訝しげに私を見たが、すぐに黙って車を出した。
その夜もいつもの店に行ってみたが、あの男はいなかった。
帰る前にアダムの木の話をしたかったので、その辺にいた現地人に彼のことを尋ねた。
「ああ、アダムなら、通りのはずれの家に、一人で暮らしている」
そう教えられた。アダム。それが彼の名前らしい。
もう時間が遅かったので、翌日、帰る前に訪ねることにした。
次の日、食事を済ませてすぐに、彼の家へ向かった。その家は、私の民宿や近所の現地
人の家よりもはるかに汚らしく、玄関の窓にはガラスがはまっていなかった。男は寝てい
たようだった。私を見ると驚いたように一瞬その場に立ち尽くし、それから招き入れて、
あまり熱くないコーヒーを出してくれた。
私は、これから帰るのであまり時間がないことを伝えた上で、昨日の話をした。
「食べたのか?」
男は、それまで聞いたことがないくらいはっきりとした口調でそう言った。
「本当に、食べたのか?」
「ああ。けれど、全然美味くはなかったな。水っぽいくせに、後で妙に喉が乾いた」
男の気迫に思わず押されながらそう答えると、男は席を立って奥の部屋へ引きこもって
しまった。途切れ途切れに電話を掛けているような声が聞こえ、彼はいつまで待っても出
て来なかった。飛行機の時間が迫っていたので、迷いながらも、奥の部屋に向かってコー
ヒーのお礼を言い、家を後にした。
空港で、会社に電話を掛け、迎えの車を頼もうと思ったのだが、何故か呼び出し音すら
鳴らなかった。仕方なしにその辺で土産の菓子詰めを買うと、出国の手続きを受けに向かっ
た。飛行機ぎりぎりの時間だったので私は少し焦っていた。
しかし、私の出国願いは受け付けられなかった。何度問いかけても、パスポートが無効
であると言われ、挙句の果てにはあなたの母国はこの島じゃないかとまで言われた。
「なんだって?」
「あまりしつこいと警備を呼びますよ。旅行に行きたいなら、ちゃんとしたパスポートを
作ってから来てくれ」
さっぱり訳がわからなかったので、私は警備どころか警察を呼んでくれと頼もうとした
が、そのとき、知り合いが目に入った。
あの男だった。
それまでの伸びたシャツからジャケットに着替え、髪も切ったのか、やけにさっぱりし
ていたのですぐには気が付かなかった。男はまっすぐこちらに向かって歩いて来ていた。
「ああ、あんた!」
私は彼に駆け寄って、状況を話した。
「何とかしてくれ。空港の奴ら、さっぱり要領を得ない」
男はそれまで黙って私の話を聞いていたが、手に持っていた重そうな鞄を握り直すと、
こう言った。
「アダムだよ。あんたは、アダムになったんだ」
「何?」
「言っただろ。原罪を犯した、あのアダムだ。あんたは、楽園から追放された」
男の口調は、さっき彼の家で私が、アダムの実を食べたと白状したときのままに強硬だっ
た。
「楽園?」
私はすっかり混乱していた。それは、この島から追放されるということだろうか?
しかし、男は私の心を読み取ったように素早く、こう言った。
「あんたの楽園は、この島で『寝て飲んで暮らす』ことだ。働き、快適を作り出す現地の
人間を横目で見ながらな。かつての俺と同じさ。その楽園から、追い出された」
「もっとはっきり言ってくれ、何がどうなっている?」
私は、ぴくりとも動かない男の表情を正面から眺め、背筋がどんどん寒くなるのを意識
していた。
「あんたはこの島から出られない。しかしもう、寝て暮らすこともできない。金がないか
らな。あんたの銀行も会社も友人も、全て消えているはずだ。あんたはここで、アダムと
いう名前を与えられ、働いて生活していかなければならない。次のアダムが現れるまで」
私のこめかみから、スーっと一筋の汗が流れた。私はこの南の島で初めて、自分の汗を
冷たいと思った。
「それまで、せいぜいあの木を大切にするんだな。枯れて実を付けなくなっちまったら、
あんたは死ぬまでこの島の住人だ」
男は、ポケットからパスポートを取り出すと、ぱらぱらとめくった。それは、明らかに
現在使用されているものよりも古く、有効期限も切れていると思われた。しかし、彼はそ
んなことは何でもないというように唇を歪めると、立ち尽くす私の脇を通り抜けた。そし
て、通り抜けがけに、こう言った。
「なるべく早く、次の馬鹿が現れるように祈ってやるよ。俺のように、十年も待たないと
良いがな」
男が、カウンターの前で鞄を置く音を、私は背中で聞いていた。
「キクチコウゾウ」
昨夜アダムと呼ばれた男はそう名乗り、そしてその古ぼけたパスポートに、判が押され
る音がした。
空港を出ると、風が私の薄いコートを翻した。
海の、潮臭い、ねとついた、不快な風だった。