毒砂
 コンビニで釣り銭を受け取ろうと伸ばした右腕が、砂となって崩れた。
 黄ばんだレジ台の上に私の右腕は一脈の盛り土となり、その上へ、店員が驚いて手放し
た白いレシートが、ぴらぴらと舞い落ちて被さった。
 しまった、と私は思い、その若い店員が呆気にとられている隙にと思って、荷物も持た
ずに慌ててその店から逃げ出した。人に見られてしまったことが恐ろしく、パニックに
なっていて、一目散にどこか人けのない場所を探して走った。右腕を失ってまだ間もない
ので、うまく体のバランスが取れず、非常に走りにくい。
 こんな夜中なので、駅の駐輪所の裏にある小さな公園には人の姿がなく、私はぜいぜい
と息をしながらそこのベンチに辿り着いた。禿げ上がった木の枝振りの影が、黙ってそこ
に落ちている。腰をおろして、額にかかった前髪をかき上げようとしたのだが、ああ、そ
うだ。私には右腕がないのだった、そう気付く。仕方なく私は左腕で、自分の頭をできる
だけ大きく抱え込んだ。そうしながら私は、自分の体のうち、すでにもう二つの部位を
失っていることを、突然に思い出す。
 一番初めになくしたのは、右の耳たぶだった。ある朝、起きて、顔を洗った後に鏡を見
ていたら、砂時計の砂が落ちるように、私の耳が、突然、下へ向かってすーっと線を引い
て崩れていったのだ。あっという間の出来事だった。恐る恐る床を見ると、足元に小さな
山ができていて、それは本当に砂だった。さらさらと乾いて軽く、細かくて少し暗みのあ
る肌色。だけど私は、長い髪を右の耳(があった場所)の下で一つにまとめることでその
衝撃的な事実を隠し、誰にも知られずにその状況をやり過ごした。
 次に崩れ去ったのは、右の胸。仕事場で座っていたら、あるとき突然、下着の中に違和
感を味わったのだ。嫌な予感がしてさっと血の気が引き、急いでトイレに駆け込んで確か
めると、ブラジャーの右のカップには、胸ではなくて、砂が詰まっていた。あんな絶望的
な気持ちは、きっとそうそうない。おまけによく見れば、服の隙間からこぼれた砂が下へ
落ち、私の座っていた席からトイレの個室まで、床に薄く線を引いているのだった。私は
それがあまりにも恥ずかしくて、その日は仕事を早退してしまった。しかし、それでも世
の中には便利なものがあって、私は下着に詰め物をすることで、また次の日から、何食わ
ぬ顔で生活をしていた。
 だが今度は、そうも行かない。私はピアニストだ。左腕だけでは、仕事にならない。い
やその前に、今度は、一体どうやってこの状況を隠したらいいのだろうか。
 私は、なかなか、抱え込んだ頭を離して立ち上がることができなかった。


「疲れていらっしゃいますね」
 と、その医者は言った。
「非常にお疲れのようです。どうでしょう?少しお仕事の方、休暇を取られて、そうです
ね、旅行になど出掛けてみると良いのではないですかね。……休暇は取れそうですか?」
 デスクに向かって何かペンを走らせながらそう言う白衣のその人を、どこか胡散臭く見
ながらも、私は真面目に答えた。
「そうですね……、来月になれば大丈夫だと思いますけど」
「ではそうされると良いでしょう。その夢を見始めて、二週間でしたか。眠れないことは
ないですか?」
「夢を見た後は、たまに。夜中でも眠る気になれないことがあります」
「少し、眠れる薬を出しておきましょうね。必要だと思ったら使用してください」
 やはり私は大袈裟なことをしてしまったのではないかと思った。最近、ちょっと変な夢
を見る、それだけのことだ。そんな薬や医者に頼るだなんて、とんでもないことをしてし
まった気がする。私は疲れているのだ。言われなくたって、自分でもそれくらいは分かる。
ただちょっと疲れている、それだけだ。
「睡眠薬ですか?そんなもの簡単に飲んで良いんでしょうか?」
 怖気づいてそう聞くと、医者はちょっと驚いた風に私を見て、
「そんな大袈裟なものでもないですよ」
と言って愛想笑いをした。……そうなのだろうか。
 病院を出てから、近くにあったコーヒーショップに入り、私はスケジュール帳とにら
めっこをした。月末が今のプロジェクトの納品日だったが、私はその完成を待たずして、
来週半ばから別のプロジェクトへ移動することになっていた。尻に火のついた慌しい現場
で、正直、気の進まない仕事だった。猫の手は私でなくとも良いはずだと思った私は、事
情を話して、今のプロジェクトから別の人間を移動させてくれるよう、上司に頼むことに
決めた。
 Sサイズのコーヒーを時間をかけて飲み干し、店を出て、家に帰り、その日は夢も見ず
に良く眠った。

 結局、私は一つ下の後輩に仕事を代わってもらい、月末の納品を済ませた後、フォロー
業務をプロジェクトの仲間たちに任せて、一週間の休暇で温泉地へ向かった。冬にはもっ
てこいの場所だが、冬休み後のこの時期は、観光客も少なかった。
 インターネットで予約した旅館は、海に近い大きな建物で、三ヶ所ある風呂から遥かに
水平線を眺めることができた。曇天を映した鈍色が、町並みの向こうに広がっていた。部
屋へ案内してくれた仲居は五十過ぎくらいの大柄な女性で、時期外れの女の一人旅を、ど
うやら怪しんでいるようだった。まあ確かに、私のような若い女性が一人で一週間も温泉
地に滞在するなんて、珍しいかもしれない。おまけに私は、わりと高価な宿を選んでいた。
働きづくめで、普段、お金を使う暇などなかなかないのだ。こんな時にくらい、贅沢に使
いたい。部屋を見回して、その整い具合に、調度品や壁の色の具合に、私は満足した。
ちょっと暮れてきましたけれど眺めも良いんですよ、という仲居の言葉に従って障子を開
けると、磨かれた窓ガラスには自分が映った。その影を認めた瞬間、私は無意識に、自分
の四肢を確かめてしまった。
 ここに来るまでの間に、私は、あれから更に右足と左の耳を失っていた。もちろん、夢
の中で、であるが。特に右足を失う夢は恐かった。私はもう歩くことができないのだった。
夢の中での私は、何故かピアニストという仕事についていた。右腕を失ったときからピア
ノを満足に弾くことはできなくなっていたが、右足も失った今、ピアノまで行くことすら
不可能なのだ。
 医者に貰った薬は、迷った末にけっきょく数度使ったが、眠り過ぎると忙しい仕事に支
障があった。毎日、眠らないか眠り過ぎるかの、どちらかなのだった。医者に眠れない夜
があるかと聞かれて、たまに、と私は答えたが、それは嘘だった。奇妙な夢を見始める少
し前から眠れない夜が続いていたが、あの時、それを正直に話すことができなかったのだ。
「休暇ですか?羨ましいわあ、一週間も」
 わざとらしく間延びした声で仲居が言う。お茶を淹れながら彼女は、窓辺に立つ私の背
中をじろじろと観察しているのだろう。
「東京からいらしたんですか?」
「ええ。しばらく忙しくて、お正月もろくに休めなかったものですから。時期外れの冬休
みです」
「そうですか。のんびりして行ってくださいな。良い所ですから」
「そうですね、海がきれいで」
 私がそう言いながら窓辺を離れ、テーブルでお茶を受け取ると、仲居は私の左手の指輪
に目を留めたようだった。
「でも一週間もこんなところでのんびりされていたら、ご主人も寂しがられるんじゃあり
ません?」
 図々しい女だ、と私は敵意をむき出しにそう思った。
「ああ、これは、そういうわけではないんです」
 よそよそしく言って、そっぽを向いた。仲居は、それで私の気分がわからないほど無神
経ではなかったようだ。失礼しますとそう言って、部屋を出て行った。
 だけど、私も悪かった。こんな指輪をしてくるなんて。旅先に見栄を張る相手なんてい
ないだろうに……いや、いるか。同僚や上司に対してだけでなく、私は、仲居にも、タク
シーの運転手にも、すれ違う観光客にも、下らない見栄を捨てられない。

 海辺を選んだことが失敗だったと、私は二日目ですぐに気がついた。浜は、当たり前に
砂だらけだった。朝食のあとで散歩に訪れたとき、私は、踏みしめるたびに崩れる砂の感
触に、めまいを起こしそうになった。
 海沿いの道を歩いて、土産物屋の二階にある定食屋で、昼をとった。窓からくすんだ海
を眺めていたら、座ったお尻から湿った薄い座布団へとどんどん気力が抜けていって、午
後はもっと先まで歩こうと思っていた計画を、取り止めることにした。贅沢に遊ぼうと
思っていたわりに、こんな、他に客のいないような定食屋で食事をしている自分に気がつ
いて、ふと行動を改めかけたけれど、けっきょく、どこか高価なレストランを探すような
気分にはなれないまま、その店で一時間を過ごした。
 右手で頬杖をつき、テーブルの上に投げ出した左手をときどき眺めた。窓の外の砂浜が、
私にあの夢のイメージを思い出させている。これまでのパターンでゆくなら、次は私は、
左の胸を失い、次いで左腕も失うのだろうか。
 冬の薄い午後の光に照らされている左手には、今朝もまた、プラチナの指輪をはめてし
まっていた。もうそれは習慣なのだ。朝起きて顔を洗い、鏡を確かめ、前夜、風呂に入る
ときに外して洗面台に置いたままにしてあった指輪を、はめる。その一連の動作を、私は
たいした意識もないままにやってしまう。彼とは、終わったというのに。
 日が傾き始める前に宿へ戻った。夕食は、二日目ですでに、時間をかけて味わうほど楽
しいものではなくなってしまった。絶対に悪い夢を見るような気がして、なかなか眠る気
にならず、長く風呂に入った。
 夢はいつも、すべてを忘れた状態で始まる。夢の中で私は、ごくごく普通の日常生活を
営もうとしている。そして、ふとした瞬間に体の不自由を意識し、決まって愕然となるの
だ。何度繰り返し夢見ても薄れることのない、途方をなくした不安感と絶望感。
 長く付き合った恋人との別れが、強く影響しているのは明らかだった。夜に眠れなく
なったのは、彼が一方的に電話を切った、あの日からだ。それ以来、多忙で疲れた私の心
のひび割れに、後ろ向きな感情がしみしみと入り込んで来ている。
 案の定、その夜には、左胸を失った。

 三日目は、一日中を部屋で過ごした。
 よく眠れなかった私に、仲居は、朝食のお茶碗を差し出しながら、顔色の悪さを気遣っ
てくれた。大丈夫ですよと見せた愛想笑いが、思わず心にしんどかったので、私はますま
す暗い気分になるのだった。一体どうしてしまったのだろう、私は。
 重い心を癒すために旅行へ来たはずなのに、やはりこんな静かな海辺ではいけなかった
だろうか。もっとエネルギッシュな場所にすれば良かった。水平線を見るたびに、波音を
聞くたびに、心もとなく崩れる砂のイメージが湧いてしまう。
 だけど、どこかへ移動するのも、エネルギーに立ち向かうのも、もうすでに私には面倒
になってしまっていた。
 三日目も四日目も、夜は薬を飲んで寝た。睡眠薬には最初のうちこそ抵抗があったが、
私の心は残念ながらあまり健常ではないのだと、それを認めてしまえば、穏やかに過ごす
ための薬も、避ける必要などないのかもしれない。

 五日目の朝、私は、また海まで散歩に行った。良いことなどないのにどうして足が向
かってしまったのだろう。自分が、重くて暗いものに引かれていってしまっているようで、
恐い。朝方に降った雨のせいで、砂はすこし重くなっていた。
 波に巻き込まれて散る砂や、次から次へと耳へ覆いかぶさってくる波音など、あまり楽
しくないことばかりを考えてしばらく浜辺にいた。風が強い。空を覆ったあの雲は、動い
ているのだろうか。その日、そこで、はっと、次の夢では左腕をなくすことになるのだと
気が付いたとき、私の心臓は凍りついた。数秒間息を殺した後、指輪の光る左手をさすっ
て確かめた。
 彼からこの指輪を貰ったのは、まだ付き合い始めたばかりのことだった。長い付き合い
の中で、彼はその後も何度か指輪を贈ってくれたけれど、私は、この指輪だけは左の薬指
から外さなかった。あまりに付き合いが長すぎると、不安になる。未来が見えすぎるのは、
恋には向かない。どこかで打つはずだったステップアップの手はずを、私たちは打ち損じ
た。けっきょく最後には、なかったことにするしかなくなる。
 私が、しばらく休みが欲しいと頼んだとき、久しぶりに会った彼は、はっとした顔をし
てから、苦渋の表情でうなずいた。それで私は、彼の中では私という存在が、順調に影を
消しつつあるのだと知った。新年会や忘年会など会社で企画される飲み会のたびに、いつ
までも独身でいてはと冷やかされる彼を見ては高鳴っていた性懲りのない私の胸は、あの
ときに死んだのだ。
 最後の電話越しに聞こえた彼の溜息は、もう腐りきっていた。私ももう、今はその毒に
おかされてしまっている。毎朝毎夜、心が、腐り行くのだ。


 波音が、足元の方から押し寄せてくる。潮が満ちて行っているのだろうか。どんどん、
どんどん、音が近付いてきているような気がする。私は砂浜に、仰向けに寝ていた。背中
がじんわりと湿っている。雨が降ったのだ。だから砂が湿りを帯びている。空ばかり見え
ているけれど、なんとなく分かる。ここは、私が散歩に来たあの砂浜だ。
 このままここに寝ていてはいけない。風がとても冷たくて、私の体を震えさせている。
じきに波もかぶってしまうだろう。そう思って、起き上がろうとする。とたんに、するっ
とベールが剥がれたように現実が降ってくる。体を支えようとした右手がない。慌てて確
かめる。動かそうと意識した足も、ない。ああ、そうだった。ないのだ、私には、もう、
何も。
 もう、すぐそこまで波が押し寄せて来ているのが分かる。あたりの砂が、少しずつ緩み
始めている。私はこのまま動くことができずに、海に沈むのだろうか。それとも最後には
全身が砂と溶けて、波に巻かれていくのだろうか。どっちにしても、消えてしまう。
 瞳に涙が湧き上がった。泣くのは久しぶりだったと、ふと思う。こんなに辛い思いをし
ていたのに、そういえば、私はまだ泣いていなかった。
 左の目じりから零れた涙を、反射的に左手が拭った。なんてこと……そう、左手が、
拭った。左手だけはまだ、なくしていなかったのだ。
 どうしてだろう。またベールが一枚剥がれた。順番で言えば、足より先に腕を失うはず
だった。
 どうしてだろう。


 そしてそこで、夢から覚めた。

 寝起きは最悪だった。六日目の朝。海辺に旅に来たことを、改めて、心の底からもうれ
つに後悔した。
 今すぐこんなところからは離れようと瞬時に決めて、寝起きのままフロントへ内線をか
けた。料金は当初の予定通り支払うので、チェックアウトを一日早めたいと伝えた。朝食
も断った。とにかく今すぐ出て行くから、と。嵐のようなスピードで身支度を整え終わっ
た頃に、仲居とおかみが大慌てで部屋へやってきた。あまりに唐突なキャンセルなので、
なにか自分たちに不備があったのかと思ったのだろう。
 あくまでこちらの都合だと適当に良い訳をし、私は部屋を後にした。こんなに早足で歩
いたのは、久しぶりだった。いつまでもこんなところにいるから悪いのだ。ここにいては、
自分が腐り行くばかりだ。わかっていたのに、どうしてもっと早く移動しなかったのだろ
う。自分の不甲斐なさに腹まで立ってきた。
 フロントで支払いを済ませた後に、医者からもらった薬を置いたままにしてきたことに
気が付いた。が、もうどうでも良かった。ここから離れさえすれば、もう必要ないような
気がした。余計なものはあの客室に置いてきて良かった。
「部屋に、何か忘れたものがあったら、皆処分してください」
 フロントの女性にそう言って、私は旅館を後にした。
 呼んでもらっていたタクシーに乗り込もうとしたとき、慌てて走り寄って来る人がいた。
部屋付きの仲居だった。
「お忘れ物が」
 と息を切らせて言う彼女を、私は遮った。
「処分してくださっていいんです。お手数かけて申し訳ないけれど」
けれど彼女は、そういうわけにもいかないので、と言って白いハンカチを取り出した。
「洗面台に指輪をお忘れです。こういうものは、私共で処分するわけにも参りませんの
で」
 私ははっとして自分の左手を見た。確かに、いつもいつも、毎日はめ続けたあの指輪を
していなかった。仲居が折りたたんだハンカチを開くとそこにはあの指輪があって、彼女
は意味ありげに私を見た後、またハンカチを折りたたんで差し出した。
「すみません」
 半ば呆然としたまま私はそれを受け取り、そのままタクシーは駅へ向けて走り出した。
 振り返ると、仲居がこちらに向けて頭を下げていた。旅館が遠のき、海への散歩で歩い
た道が、過ぎ去っていった。
 やがて道の左側に海が見えた。私は、今朝の夢を、これまでの夢を、思い返していた。
 次々に体を失い、仕事も未来も失い、私自身が消えていく。そんな一連の夢。それでも
順番を通り越して左腕を残したのは、私がそれだけこの指輪に固執しているからだろうか。
 タクシーが町なかへ入り、海が見えなくなった。駅が近くなってきた。まだ朝が早く、
開いている店はほとんどなかったが、出勤途中だろう、スーツにコートを合わせたサラ
リーマンの姿がちらほら見えた。
 私も、明後日にはまた会社に出なくてはならない。上司である彼とは仕事場こそ別だけ
れども、ときおりは顔を合わせることになるだろう。
 この指輪を、どうしよう。捨てる勇気はなかった。だけど、持つことに意味がないのは
分かりきっている。彼に休暇を打診したとき、私は思わず左の薬指を隠してしまっていた。
今後も隠し続けるぐらいなら、はめない方がよほど良い。どうしよう。
 私は戸惑いながら、ハンカチをゆっくりと開いていった。
 そのとき、タクシーが駅に着いて、少しばかり荒いブレーキを踏んだ。体がかくっと揺
れて、ハンカチを持った手が傾いた。
 そして白いハンカチの隙間から、零れたのだ。まるで、砂時計の砂が落ちるように。細
かくて少し暗みのある肌色の、さらさらと乾いたものが。
 それは私のスカートの上に、ほんの小さな山を作った。
 ハンカチをすべて開いてみると、そこには指輪はなかった。ただ、繊維に引っかかった
砂の粒がいくつか、残っているだけだったのだ。
 タクシーの扉が開いた。戸惑っていた私が確かめる暇もなく、吹き込んできた冬の風に
砂は巻かれていってしまった。
 お金を払って駅に降り立ってみると、私の左手には白いハンカチだけ、それ以外、何も
残ってはいなかった。
 ああ、私はこれで全てを失いきったのだと、なんとなくそう思った。失うべきものを、
綺麗に失った。
 毒におかされていた全ての私は、今もう、本当に去ったのかもしれない。





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