まろやかな幸福を
辛い思いをしたときにはこの部屋に来てその痛みを置いていけばいい、と教えてくれた
のは、僕らの祖父だった。その頃僕は、家を出ることにちょっと怯えるような繊細な小学
生で、だから祖父は、もて余す感情の扱い方をよく僕に教えてくれていた。
僕といとこの晶が初めてその屋根裏部屋に通されたとき、そこには大きく古めかしい机
がひとつあるだけだった。あの時は確か、晶は母親に間違って片側を捨てられてしまった
おもちゃのイヤリングを泣きながら引き出しに入れて、そして僕は、友達に破かれてし
まった、テレビアニメのヒーローがデパートの屋上で書いてくれたサイン色紙をしまった。
学校帰り、ランドセルを背負ったままで、僕も泣いていた。
誰も入らない屋根裏部屋の誰も使っていない古い引き出しは、やり切れない想いを押し
込めるのにはうってつけの場所だった。
とげとげしい記憶も、時間の波にもまれていつか少しずつ角を落とし始める。まろやか
に扱い易くなった頃に、再び抱えに来るといい。祖父はそう言って、僕らの頭をなでてく
れた。優しい思い出ならば幸福の糧になるから、と。
今見るこの屋根裏部屋には、驚くほど物が増えている。久しぶりにここへやって来たと
き、この物の多さを見て、僕は少なからずショックを受けた。祖父亡き後、この海辺の家
は親戚一同が別荘のようにして使っていたが、関西の大学に進んだ僕は一度も来ることは
なかった。晶と会うことも、なかった。まさか彼女が今もここを使い続けていようとは、
想像もしなかった。
僕は、よく会っていた頃の印象から、晶はきっと強く冷静な女性に成長しただろうと
思っていたし、それに、彼女のことを考えないようにもしていた。そう、僕はいつの間に
か、この部屋の力を借りずとも考えないようにすることで記憶を風化させる方法を、みん
なと同じように身に付けていた。
僕は、ここへ僕を呼び出した晶の真意を掴みかねていた。夜中、彼女から突然の電話を
受けたときもそうだったし、ここへ着いてからは、なおさらだった。最後の日から四年が
経って、僕の中の晶は、すっかりまろやかに眩しくなってしまっていた。けれど、実際の
彼女は今もまだ、とげとげしい感情を持て余している。あの頃のように。
気が付くと、天窓から昼過ぎの黄色みを帯びた光が差し込んでいた。現れない晶を待つ
うちに、僕は眠ってしまっていたようだ。まぶしさに目を細めながら、夜通し高速を飛ば
してきたことを思い出して伸びをした。そしてはっと、気が付いた。彼女の存在に。
晶は、僕から少し離れた床に座っていた。僕と目が合うと、困っているような安心して
いるような、よく分からない静かな笑顔を浮かべた。僕は、どうしていいのか分からずに、
ただ黙って寝そべったまま彼女を見ていた。
数分の後か、それとも数秒しか経っていなかったのだろうか、彼女はゆっくり手を差し
伸ばし、僕のまぶたを伏せさせた。体温の低い手のひらが心地よく、まるで、僕にそのま
ま眠れと言っているようだった。だから、素直に再び眠りに落ちた。
僕は馬鹿かもしれない。
次に目覚めたとき、晶はもういなかった。
それから二年、こうしてここで彼女を待って暮らしているが、いまだ彼女は僕に会いに
は来ない。どこへ行ったのか、僕だけは探しはしない。なぜなら、僕はここに置いていか
れたのだから。
彼女は、僕の風化を願っている。彼女がここに置き溜めた、僕の知らない他の男の写真
や、握りつぶしたままの手紙や、彼女の愛猫の今は空となってしまったケージなんかとと
もに、鮮やかな輪郭を失ってしまうことを。
彼女が、今はまだとげとげしいこれらの記憶を懐かしいと瞳を細めて抱けるようになる
日まで、まろやかに優しくなったかつての僕との思い出を取り戻しに来るまで、僕はここ
で、彼女に多くの時の波が訪れるのを待つしかない。僕との日々や、この雑多なものたち
が、いつか彼女の幸福の糧になることを祈っている。