夢想
 東から、少し強い風が吹いている。
 高志は、人のいない農道を、一人で歩いていた。
 四日ぶりの晴れ間。
 気温も昼を過ぎる頃からぐっとあがり、畑のビニールシートが、内側に汗を掻いている。
 ここのところ冷え込んでいたせいか、それとも、自分でも気付かない内にまた何か無理を
してしまったのか、今朝の高志は、久しぶりに高い熱を出していた。右腕に打たれた注射
の痕が、重く痛い。
 だが、その甲斐あって、数時間の睡眠から覚めた今は、気分はかなりスッキリしていた。
ここ最近は感じたことのなかったくらい頭の中も視界もハッキリとしているので、高志は
気分が何時になく弾んでいるのを感じている。
 行く手の右側に、菜の花の咲く畑があった。作られているというよりは、空きが出来た
ので植えてみたという感じだろうか。株と株の間が妙に大きく間引きされていて、花もま
ばらである。
 蝶が一匹、その上を飛んでいた。
 モンシロチョウだろうか?
 高志は頭の中で子供の頃に捕まえた蝶の姿を思い出す。風が強いからなのか、それとも
蝶というのは本来こんな飛び方だったのか、彼は、その蝶が上下に大きく振れながら花の
上を行くのを目を細めて見ていた。
 高志は、生まれも育ちも都会だった。知っているのは、整然と並べられた木の繁る小さ
な公園や、重く濁った川ばかり。昔からよく、こんなのどかな風景によく憧れたものだ。
自分の母親の田舎はこんな所だったらしいが、彼女の両親は共に既に他界しているので、
訪ねたことはなかった。ヒバリが鳴き、どこからか花の香りが微かに漂う。「ここは田舎
に似ている」と、母親は高志の枕元でよく話す。もっとも、彼女にしてみれば一人ごちて
いるつもりであって、寝たフリの高志がそれを聞いているとは思ってもいないだろうが。
 最近は、母親と高志が話すことは少なかった。泣いてばかりいる彼女を見るのは高志に
とって辛いことだったし、母親も、高志が寝ている時以外は、顔を見に来てもすぐに出て
行ってしまう。彼女も気まずいのだろうと、高志は思っている。
 春の日差しが高志の後頭部から背中を暖めていた。どこか夢見心地になりながら、高志
は菜の花畑の前までやって来て足を止める。
 こんなに近くに居ながら、この辺りを訪ねたのは初めてだった。都会の町から憧れの田
舎へやって来て、しかし散歩もせずに数ヶ月過ぎた。正しく言えば、「させてもらえなかっ
た」訳なのだが、そんな状況に置かれている自分が情けなくって笑えてくる。来る日も来
る日も、小さな窓から、広がるこの緑の命の大地を、湿った気持ちで眺めていたのだ。こ
んな軽い気持ちになれたのは、ここへ来て初めてかもしれない。今朝の注射が熱ばかりで
なく、自分の調子の悪い所も治してくれたのだろうか。そうでなければ、こうして外へは、
とても出て来られなかっただろう。
 蝶は、みずみずしく黄色い花の上を、飽きもせずに飛びまわっていた。
 子供の頃捕まえた蝶はもっと弱々しく、都会の空気の中を花を求めてさまよっているよ
うだった。それに比べてこの蝶の、なんと力強いことか。たとえ強風に煽られ上下に振れ
ていても、高志にはそれが分かった。
 高志は、右手をそうっと、蝶へ向けて伸ばした。
 ちょうどその時少し先の花から飛び立ったところだった蝶は、一瞬、戸惑うようにホバ
リングした後、高志の方へやって来た。
「まさか」
と高志は思わず声に出して驚いたほどだが、やはり蝶は彼の右手へはやって来ず、指に微
かに触れた辺りでひらりと身を翻し、反対の方向へ飛んで行ってしまった。
 高志は、さっきと同じようにゆっくりと、伸ばした右手を戻す。中指の先に、僅かにリ
ンプンがついていて、日の光に、きらりと一度、反射をした気がした。
 向こうを見やると、蝶は菜の花にはもう満足したのか、畑を出ていこうとしていた。向
こうの方の畑には、何か知らない花がある。今度はその蜜を吸うのだろうか。
「菜の花より美味いんだよ」
 そんな声が頭の中に聞こえた。
 高志は自分の背後に立つ白い建物を振り返る。今戻ってしまったら、またここへ出て来
れるのはきっと先のことになるだろう。それに、そろそろ母親が部屋を覗きに来ている時
間だ。自分がこんな所をふらふらしていると知り、今頃彼女はまた泣き出しているかもし
れない。
 戻るのはやめようか。
 高志はもう一度、蝶の行方を目で追った。
 向こうの畑は、本当にここより美味い蜜があるのだろうか。ここよりも、素晴らしいだ
ろうか?
 高志は、注意深く菜の花の株を避けながら、蝶を追って、畑の中を横切って行った。



 ……そして、後に残されたものは、白い建物の、白い個室の中に。
 窓からの春の日に照らされた青年の抜け殻と、耳に突き刺さる、一筋の甲高い機械音。
 両の目を涙で濡らした中年女性が、たった今ベッド際の窓から抜け出ていった白い蝶を、
黙って眺めていた。






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