LOFTと書かれた真新しい看板を掲げて、その店は静かな夜の中にあった。 なぜにこんな町外れに店を作ったのかしら、と私は改めてちょっと不思議に思いながら、 友人のロドの、その新しいバーレストランの扉を開いた。繁華街からは離れた、良くある ドーム天井の白いビルの最上階に、名前どおり屋根裏部屋を模して作られたその店は、小 さく、そしてひっそりと薄暗く、一号客の私を待っていてくれた。 「いらっしゃい」 私を見ると、ぐるりと囲んだカウンターの中からロドが照れくさそうにそう言って、彼 の前のイスを目で指した。 「本日は、お招きいただきまして」 私は笑いながらふざけてそう言って、開店祝いにと持ってきた包みを渡す。古い街並み を映した写真の、レプリカだ。できれば本物を贈ってやりたいところではあるが、いかん せん、希少価値の高いこの手の遺物には、とても手が出ない。くるみ色の石壁、整然と並 ぶ小さな窓、あちこちに施された細やかな装飾。かつて古い星で祖先が暮らした頃に栄え たという、歴史の街が描かれている。彼は、この手のものを集めることを趣味にしている のだ。ノスタルジアとロマンを愛する、私の無二の親友である。 「来てくれてありがとう」 そう言った彼特有の柔らかな発声に、私は、街なかを店としなかったロドの選択が、正 解だったのだと気付いた。ふわりと浮いて宙に余韻を残すような彼の声は、誰の耳にも心 地良い。この静かな空間の中で、ずっと耳を傾けていたいと思わせる。 「飲み物を作るよ」 ロドはそう言って、できる限り音を立てぬ方法で、カウンターの中を滑らかに動きだし た。 私は、首をめぐらせて、明日の開店を待つ艶やかなテーブルや、深く座り心地のよさそ うなソファーや、華奢なカウンターチェアを眺めた。十数年の夢の果てに今ようやっと開 こうとしている彼のその店は、とても品良く仕上がっている、と私は思った。 丸い天井を見上げると、そこにはいっぱいに、大きなモニターがはめ込まれていた。 「あれは?」 問いかけた私の視線に気付いたロドは、手を休めて顔を上げ、微笑んだ。色の白い額に、 さらりと前髪が落ちてかかった。 「僕の自慢はね」 彼はそう言ってそっと歩み寄り、壁際のスイッチをカチッと入れる。すると、もともと 暗かった照明のうちフロアを照らす部分がより落ちて、ヴィーンという低い音とともに天 井のモニターが起動し始めた。数秒のあいだ、カウンターの中でロドの姿だけが明るく ゆっくりと移ろい、私は、ほとんど闇に沈んでいた。 やがて、ぽつぽつと少しずつ、天井のモニターに白い光が浮かび上がってくる。 「これって……」 まるで、降り始めた雨が急いで地面を覆うときのように光の点がつぎつぎと浮かび始め、 それに目を奪われてしまった私の言葉の続きを、ロドが優しく拾った。 「ほしぞら、だよ」 そうして、光の点打ちが落ち着いた頃、店の中は、すっかり青白い光で滲んでいた。 私は、幼い頃に見た、プラネタリウムの世界を思い出していた。街に薄白いもやがかか る夜の時間、居住区から遠く離れた、たとえば北の環境管理区に確保された空などで、そ れは見られるのだという。と言っても、プラネタリウムの天井に映される幻影よりも、 ずっとまばらで寂しい数だというが。 「これが、屋根裏部屋の天窓の代わり、というわけだよ」 その貴重な風景はロマンチストたちの間で愛されており、宇宙を眺めるためのソフトが、 静かにブームとなっているのだという話を聞いたことがある。宇宙空間を移動するライブ カメラから、場所やアングルを変えて、さまざまな星空の映像を届けるのだ。 ロドがそのチャンネルをゆっくりと順に切り替えていき、私たちはしばらく黙ってその 擬似空を見上げていた。私の顔や肩や腕には星の光が降りかかっていて、なんだか、自分 の存在が、大きいような小さいような、不思議な気分にさせた。 ふと、ロドがコントローラーを操る手を止めたとき、モニターには、あいかわらず小さ な無数の白い光と、それから、比較的大きな薄紅の星が映っていた。その星を見て、私は、 彼の意図したことを悟り、そして、ああ、と懐かしい気持ちと苦しい気持ちでいっぱいに なった。 それは、サクラだった。 かつて我ら人類が生まれ、生きたという、古の星である。 それはもう、気が遠くなるほどはるか前史時代のお話であり、今となっては語られるこ ともほとんどない。一体何があったのか、進出だったのか、逃走だったのか、古く昔に人 類はその星を旅立ち、こうして遠く離れたこの惑星の上で、すでにもうじゅうぶんに長い 歴史を積み重ねている。当時の様子を示す資料が極端に少ないことを考えると、それはや はり逃走だったのかもしれない。 さっき私が彼に送ったあの写真のオリジナルも、当時の様子を語る貴重な手がかりの一 つとして今は政府管理の下にあるが、それについて、というよりもかつての母星全般につ いての研究は、もうとうの昔に打ち切られている。なにしろ、現在の技術を持ってしても その星はかなり遠く、そのわりに、苦労したところで得ることのできるものなど無いに等 しいのだ。その星は今や、人が生きることのできる環境にはあらず、研究の対象となるよ うな遺跡もほとんど残らず、青い水辺と乱立する黒肌の木の森がただ広がるだけだとされ ている。我が惑星では貴重とされる木材を採るためのコロニーにするとしても、距離的な 面で非常に効率が悪い。 そういうわけで、すでに人類にとって死の国となったその辺鄙な星に関して、かつて我 らの母星であったという事実も、今や伝説やおとぎばなしに近かった。 「しばらく、この映像にしておいてもいいかな」 気遣うようにそう声をかけてきたロドに、私は振り向かずに頷いて了承の意を表し、ま た天を仰いだ。少しの間、ロドは私の背中を見守っていたように思う。それから、カウン ターの向こうから、氷を砕くミキサーの音が数秒鳴り渡り、その後は再び辺りは沈黙に 戻った。 サクラというのは、通称である。学術的な名は他にあるのだが、いつの頃からか、そう 呼ばれるようになった。それは、本当は星の名ではなく、木の名前なのだという。 その星は、ひときわ煌めいていた。 私は、それが映像であることも忘れ、すぐそこにある本物の空のように思い、とりわけ、 サクラが私に向かって瞬いているかのように感じていた。あの星がこれだけ私の瞳を捉え るのは、そこに、かつての恋人がいると思うからなのだろうか。 彼は、ジョウジは、ロドと同じ人種だった。いや、もっと酷かったのだというべきだろ う。つまり、ノスタルジアとロマンに、溺れていた。その通称の由来となった、桜という 木をこの目で見たいのだと、口癖のようによく言った。 その木は、母星中に植生していて、一定のサイクルで薄紅色の花をつける。普段は青い 水の色だというその星は、花の時期にだけ不思議な色に染まるのだ。かつて組織されてい た母星調査団の努力も空しくこの惑星ではけっきょく育たなかったその木の花を、古人は たいそう愛でていたと、そうジョウジは言っていた。我々は、とても美しいものを失って しまったのだと。 「どうぞ」 背後からそう声がして、私は、見上げていた顔を正面に向き直らせた。 ロドが出してくれたグラスには、薄紅色のお酒が入っていた。砕かれた氷の向こうから ライトキューブが輝いていて薄紅が闇に浮かび、頭上の景色を思わせた。 「昔、ジョウジのコレクションしていた古書に酒について書かれたものがあってね。彼が 旅立つときに、譲ってもらったんだ。これは、その本に載っていたカクテルだよ。復刻版、 というやつだね」 私はきっと、とても切ない顔をしていたのだろう。だって本当に切なかった。ロドは、 私をいたわるように優しく、そのカクテルの名前を告げた。 「夜桜、だよ。桜は、夜の闇の中での眺めがまた格別だったそうだ。僕らが見る、あの星 のことだよ」 私は、ゆっくりと、震える気持ちでその美しいグラスに口をつけた。しゃりしゃりと細 かい氷が口の中へ滑り込んで、はかなく消えてゆく。 ジョウジは、もう八年も前に、桜を見にあの星へ行ってしまった。現代に残るわずかな 絵や文章に魅せられて母星を訪ねる冒険者のうち、半数以上は辿り着けずに途中で帰還し、 残りのほとんどは、二度と戻らない。ジョウジは、旅の途中で消息を絶った。 船に乗り込むジョウジを見送ったとき、私はもうすでに、彼の恋人をやめていた。とて つもなく危険な旅に出ると決めた彼は、夢より私を捨てることを選んだのだから。だから その時、私は、ジョウジとの未来を、もうすでに夢見てはいなかった。けれど、二度と会 うことがないと、そんな覚悟を本当に心からしていたわけでもなかった。この星を出て二 年もしないうちにジョウジの船が消え、もう帰らないのだと思ったとき、私も、そして ジョウジの親友だったロドも、たいそうショックを受けた。 けれどもう、それもずっと昔の話だ。 ジョウジは、命をかけて愛した花を、その瞳で愛でることができたのだろうか。私の気 がかりは、今はただそれだけだ。 「綺麗ね。ジョウジにも、見せてあげたかったわ」 私は、薄れてしまったジョウジの笑顔を思い出しながらそう言った。切なさで苦しいほ どの気持ちだった。 「たぶん」 とロドは天井を見やって言った。 「たぶんあいつは、本物の桜を見たよ。だから、それは良いんだよ、きっと」 私は、初め、そうであって欲しいと思った。そして、次に、ロドが言うのだからきっと そうに違いないのだと思い直した。彼の声がふわりと、とても優しかったので、そう思っ た。 ジョウジの不在から時間をかけて立ち直った私たちは、いつの頃からか、不思議な空気 を共有するようになっていた。お互いがかけがえなく、いろいろな気持ちを無言で交わし、 労わり合っている、そんな関係。それはまるで、理想的な老夫婦のようだった。だけど私 たちは、まだ若い。まだ若い私たちなのにそういう風にしかなれない、その原因は、間違 いなくジョウジの面影だった。私もロドも、ジョウジに関するノスタルジアを抱き続けて いる。それは、時に苦しいことだった。お互い口にしたこともなかったが、きっとずっと、 ロドもそう苦しんでいただろう。 しばらくの間、静かな時間が流れた。 その間、俯きがちな私が何を考えていたかというと、何も考えてはいなかった。ただ全 身に、宇宙の、星々の、サクラの、そしてジョウジとロドの、視線を感じていた。 少しずつグラスを傾ける私を見守っていたロドが、躊躇いがちな仕草でその口をそっと 開いた。 「ねえ、エリナ」 ロドは、まるでそれがモニターではなく天窓で、そこに映るのが本当にすぐそこにある 星空であるかのように遠い目をして頭上を眺め、そうしてその中の、おそらく今まさに花 の時期を迎えているのだろう薄紅に美しく輝くサクラに呼びかけるようにして言った。 「僕と結婚しないか」 その声は、辺りに満ちた星の光よりもさらに優しく、私の上に降り注いだ。 ロドの瞳には、サクラが映っている。だけど私は、結婚しようと言うのは素敵な提案だ と、素直に思った。なぜならそこには、未来があるのだから。未来があるからこそ、私た ちはきっとこの先、溺れることなくノスタルジアを愛せるだろう。 ロドの作った夜桜が、私の手の中にあった。 私はそのグラスを両手で包み、ただそっと微笑した。それだけで、じゅうぶんだった。
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