うずまき
 なあ、清美。
 君がよくする、その、俺に背中を向ける癖。そいつはきっと、全く得策ではないだろう。
背中は人の弱点だ。そう繕えるものではない。だから、簡単に見せるべきじゃあない。
 俺には渦巻きが見えるんだ。愛想を尽かすどころか、その背中はいつも、俺を呼んでい
るんじゃないのか。

 清美という俺の女は、小柄で、目と口が大きく、唇には色がない。腰は綺麗にくびれて
いるが、太ももから膝にかけてがやや太くよく揺れ、歩くのが速い。その小さな背中には、
渦巻きをしょっている。
 俺がはじめに彼女の渦巻きに気が付いたのは、もう半年くらい前になる。俺達がまだ、
二人の生活を打ち切ろうという話を、まるで他人事のように煮えきらず、妙に冷めた口調
でベッドにまで持ち込んでいた、その頃のことだった。今のような関係になったあと、一
時はその影も消えたように思えたが、最近になってまた、彼女の背中は、ときおり渦を巻
き始めている。
 別れてから清美は、素直になった。自分に抑えを掛けなくなった、と言うべきだろうか。
好きだとか寂しいだとかいう気持ちを簡単に口にするようになった。昔は分かりにくい女
だったのだ。我侭を言わない代わりに、優しさを注ぐこともあまりなかった。俺に対して、
愛情も憎しみも、そのどちらも持っていなのではと、たびたび悩まされた。それが今や、
抱かれたいときには、彼女は、俺の首筋や胸元に自分から口付けてくるのだ。逆に、気が
乗らない日は、俺の誘いを断って一日中ただ眠り、ろくに話すらしないこともある。何日
も姿を見せない時もあれば、いきなり連絡もなしにやって来たりもした。
 彼女は、万事が気ままな調子で、本当に勝手に振舞っているように見えた。そうしてそ
のどの部分を取っても俺が困るようなことはなく、だから俺は、彼女をそのまま自由にし
ておいた。どうして清美がいまだに俺の腕の中で眠りたがるのか、俺にはわからなかった
が、その真意をお互い話し合って探ろうともしなかった。なぜなら、彼女がそう望むこと
で俺が困ることなど、少しもなかったのだったから。
 清美の目はいつも冷ややかだった。少しつった目が災いしているのだろうが、それだけ
ではないのだ。彼女の目には少しも弱い色がなかった。まるでプラスチック玉をはめ込ん
でいるかのように、緩むことも震えることもなかった。それはいつどんな時でも同じで、
彼女は生来、そういう瞳を持ってしまっているのだった。本当に気持ちの冷え切ったとき
の彼女の視線は、完全に俺をはねつけた。俺を拒むのに、彼女は、その瞳を少し操るだけ
で充分だったのだ。
 だから、彼女が俺に背中を向けて拒絶の意思を表わすときは、それは、本当の拒絶では
なかった。そういうときの彼女の背中には、いつも、いくつかの思いが渦を巻いているの
が見えた。それは、覚悟したはずの寂しさであったり、改めて感じる怒りであったり、持っ
てはならない嫉妬の気持ちであったりした。そうしてそれらの気持ちは全て、深いところ
で、結局は俺に解消されることを期待しているのだと、俺はもう見抜いている。
 だから俺は、彼女が背に渦をしょっているときはいつも、彼女を背中から抱いた。彼女
は嫌がり、身をよじって腕から抜け出そうとするが、俺は、彼女の深いところの気持ちが
満足して抵抗を止めるまで、決して放さなかった。俺は、そうしている限りは、結局のと
ころ清美はどこへも行かないのだろうと思っていた。俺は何も困りゃしない。世話の焼け
るやつだ、そう思っていたが、求められれば悪い気などしないのだ。俺のそばに居場所を
作ろうと、躍起になって苦しんでいる清美は、正直、どこか可愛くすら見えていた。




 別れ際が嫌だった。
 下着を着けたり、化粧を直したり、靴を履いたりしている間の、私の背中を追う祐介の
視線が嫌だった。あの部屋に未練をたっぷり残している自分も嫌だった。部屋を出るとそ
こから始まる、私だけの生活を思うと、ただ気が重かった。
 あまりに別れ難い日は、私は帰らなかった。どうしても帰らなければならない予定のそ
のギリギリまで、帰らなかった。すぐに帰らなければならないような日は、いっそのこと
会いに行かなかった。私は、どうしても彼に会いたいわけではなかった。それよりは、別
れの時間を持ちたくなかった。
 別れの時間の前後には、いつも色々なことを考えた。
 私はおそらく、祐介を本当には愛してはいなかっただろう。おそらく。彼を欲してはい
たが、それは愛とは違った。しかし、彼には愛されたいと思っていた。
 彼の方は、私を欲していた。いつでも、私を腕に抱いて眠りたがった。それを、ただそ
れだけのことだと納得できるくらいに、私は人を知っているつもりだった。なくすに惜し
いと思ってしまうものが、人にはたくさんある。たとえどこかが矛盾していても。
 しかしそれにしては祐介は、私に優し過ぎた。愛情のない人間に、あんな風にできるも
のだろうか。私の機嫌を取るために繕っているようには、とても見えなかった。あるいは
それは、情さえあれば、可能なのかもしれなかった。二年以上も共に暮らした相手に、寛
容になれないことはないだろう。
 私には本当に分からなかった。けれど、私達は、そういうことを改めて話し合うような
関係では、もうなかった。私はいつも、自分の中に持て余す感情に、ほとほと困り果てて
いた。いっそのこと全て捨ててしまうか、しかしできれば全て彼に預けてしまいたいと願っ
ていた。
 彼の気持ちを図り兼ねるときは、私はよく、彼に背を向けた。背中で、彼に問いていた。
この苦しい気持ちを、はやくどうにかして。彼はたいてい私を後ろから抱きしめてくれた。
私はありがたく、彼に気持ちを預けた。
 祐介が私に背中を見せることはなかった。彼はいつだってただ黙って私を見過ごしてい
たし、私に問いたいことなどなかったのだろう。彼は、もうすぐやって来る旅立ちの日が、
それぞれの気持ちがどうであれ、確実に二人を分け隔てると考えているのだと思う。だか
ら、格別苦労して結論を出す必要など、ないと思っているのだろう。
 考えさせねばならないと思った。私は、前にも増して、彼を試すようになった。
 だけど、もし彼が私を本当に愛していたとしたら、私はどうするのだろう。それは嬉し
い。とても嬉しい。そして私は安堵するだろう。でもその先は?もし彼に愛されたなら、
もしかしたらもう一度、以前のように私も彼を愛することができるのかもしれない。そう
なったなら、なんて平和で幸せなことだろう。私はときどきそんな風に夢想した。そうな
れば、すべてが上手くいくのだと思った。でもそれは、もう無理なのだ。自分でも深いと
ころで分かっていた。分かっていることに気付きたくない自分にも気付いていた。それな
のに、でも彼の部屋を捨てられなかった。
 私は、私を嫌いになっていた。なんて情けない女だろうと思った。同じだけ彼のことも
憎んだ。彼も、あいかわらず煮え切らない男だったから。そうしてそのまま、結局、私た
ちは別れの日を迎えるのだ。
 駅は人ごみだった。
 彼は黒い大きな鞄を足元に置いていて、落ち着かなげに腕を組み替えたり足場を確かめ
たりしていた。改まるのが苦手な人なのだ。なのにまだ私は期待している。雑踏の中で、
私はこんな最後の最後まで、彼に愛されたいと願っていた。往生際が悪い。
 何かあったら、と祐介は言った。タイムリミットの、そのほんの数分前だった。取りと
めのないいつもの話の、ほんの隙間だった。
 何かあったら、すぐに、連絡しろよ、きっと、聞いてやるから、向こうに付いたら、連
絡、するよ。
 困った人だ。最後まで思わせぶりで、私を迷わせる。でも本当に迷惑な存在なのは、私
の方だ。返す気持ちもないくせに、ただ、求めている。私は、彼を見上げて少し笑った。
笑いながら、心の中では泣きたいほど後悔していた。でもいつの何を後悔すればいいのか、
自分でもよくわからなかった。なるべくして今こうなったのだと思った。もうどうにも、
これ以上良い方向にはできないのだ。涙を見られたくなかったから、私は、彼より先に彼
を送り出す言葉を口にした。彼の顔を見ないで言った。
 遠ざかる彼の足元を見ていた。他人の足と混ざるまで見ていた。それから顔を上げた。
人ごみの中から、彼の背の高い頭が、一度、躊躇いがちに振り返った。でも、私の姿を確
認しなかった。中途半端な方角で首の回転が躊躇いがちに止まり、躊躇いがちにまた元に
戻った。
 それから彼は背中で手を振った。そのときに、私は見たのだ。とても奇妙なものを。あ
れは何だろう?私の視線はその背中に釘付けになった。
 それは、まるで小さな竜巻だった。彼の背中をえぐっていた。とても苦しそうだと、私
は思った。そんなものをしょっていて、可哀想だと思った。それと同時に、恐怖も感じた。
待って、という言葉が小さく辺りに溶けた。
 人ごみの向こうに、彼がちらりちらりと見えていた。確実に遠ざかっていた。すぐに後
頭部しか見えなくなり、もう、背中の渦巻きは、確認できなかった。見えたと思ったのは、
気のせいだったのかもしれない。そしてあっという間に、彼は私の前から消えた。やっと
終わったのだと、私は思った。

 ねえ、祐介。
 あなたは本当に、私に何も望んではくれなかったのね。いつでも私を受け流していた。
ぼんやりと私を眺めるあなたの癖。通り過ぎる雲を見ているようなその瞳が、私にはとて
も痛かった。でも、でもね。この期に及んで何を躊躇ったのか知らないけれど、私がずっ
とこの終わりを待っていたことを、深いところではそう思っていたことを、あなたは気が
付いていたのかしら。





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